ESSAY

          ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲


今日は息子の個別懇談会でした。

彼は特別支援級で、ずっと同じ先生に何年もお世話になっていて、ゆっくりと丁寧に日々を過ごしています。

来年、中学生になった時、環境が全く変わることでのいろんな不安があるのですが、最近の生き生きした息子を見ていると、自分がそのままでいられて得意なことがどんどん好きになる環境だったら、本人も周りも心に余裕があるから、苦手なこともなんとか克服できそうだ!とふんでいます。

なぜなら、自分がそうだから!笑

苦手なことが先行すると、ぐんぐんいじけモードになって、生きるのがしんどくなるのですが、得意なことばっかり一生懸命やってたら、気がつけば苦手なこともそれなりにフォローできるようになってました。

この頃ようやくだけど。

私は長いこと音楽家として不十分だと思っていましたが、この間、絵本を見ながら作曲する仕事があり、それはそれは、イメージ湧きまくりでとても楽しい嬉しい制作時間でした。

今までやってきたことが、全部上手に形になった感じ。。。。

得意なことが役に立った時の喜びは、生きて行くための大きな力になりますね。

40代後半でようやくその実感が湧くくらいだっから、息子の成長も長〜〜〜〜〜〜〜〜い目で、ゆっくり見守りたいです。

さあ、今日もいい天気!!!

今夜も。

得意な鍋料理(またあ〜〜〜〜!という声が聞こえる)に励みたいと思います。

    ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲



「できることだらけ」

 

 できることだらけ と書くと、妖怪の名前みたいだけれど、この「できることだらけ」という感覚はあまりにも偉大なのだ。

全てはこれが始まりなのだ!という事を昨年改めて感じたので、忘れる前に書き留めておこうと思う。


私の仕事の一つにワークショップというものがある。

内容は0歳〜3歳までの乳幼児の人や、発達、知的障がいがあると言われる人を対象に活動している。

習い事とは違い、その人の持つ感覚を、より一層感じたり楽しんだりするために、ヘンテコ面白い空間を作り出して、とことん一緒に遊び倒す。

そんな時間を作る仕事だ。


始まりは、今から15年前。

「ぐるぐる」という乳幼児の人を対象にした言葉のないお芝居に出会ったことだった。

私と、役者のあさのかさねさんの二人が、円形にセットされた舞台の中で30分という時間の中、0歳から3歳の人が生活の中で日々感じていることを、不思議な言葉(自分で即興的に作る造語)を使い、いろんな音や表情だけでユーモアたっぷりにコミュニケーションしていく、というなんともシンプルで奥深い作品だ。

この作品は私の音楽人生に多大な影響を及ぼした。

まずは親とか大人という上からの目線を取り外して、同じ目線に立ってみる。

すると、自分が感じている生きる速度と、乳幼児の人が感じる速度の違い、音に対する感覚の違い、初めての空間、初めての人に囲まれた中での距離の取り方などなど、もう上げたらきりがないほど、当たり前すぎて忘れてしまっていた沢山の繊細で逞しい感性を体感する。

毎回、そんな子どもたちの表情を見るたびに、 そうか!そうなのか!!と改めてこちら側が「知る、解る」の連続だったのだ。

その感覚を使って出来た音を、音楽として表現すると、これが実に楽しい。

子どもたちも喜んでくれるが、更に大人が喜ぶ。


この感覚の面白さに取り憑かれた私は、横浜のゲーテ座という場所で10年前から乳幼児を対象にしたワークショップを始めた。

音と一緒に、紙や光、画材などを使って、いろんな声を出しながら風景を作っていく。

その世界の中で、まだ言葉の確立していない人たちが感覚だけで楽しんでもらえるように、どう一緒に遊べるか?

これは、実際にやってみると、とてつもなく難しい事のように感じた。

なぜなら、大人になると同時に忘れてしまった、自由でありのままでいられる感覚を、もう一度呼び戻さなくてはならないからだ。

説明するとか理解してもらうといった、言葉を主体にした手段では全くお話にならない。

その空間を作り出す為に、大人になってもとびきり感覚が自由なダンサーや美術家たちをを誘って、一緒に不思議で楽しいと思ってくれるような時間を必死に編み出した。

そんな中で、子どもたちが飽きもせず、生き生きと遊び散らかしてくれるのを見ると、ああ、少しは自分たちも、かれらの感覚に近づけたのかも!とゾクゾクっとして嬉しいったらないのだ。


小さな子どもたちは誰かと比べたりすることは一切なく、その人だけがもつ時間の中で、自分ができる最大の面白いことを、ただただしている。

そこには「出来ない」は一つもなく、「できる」だけが沢山ある。

ただそれだけの空間。このポジティブだらけの空間は、子どもたちが本気で自由に楽しんでくれたことで完成する。

成果や結果を求めがちな大人たちは、それを目の当たりにするたびに毎回ガツンと喝が入る。

そして、その面白さに興味がありそうな大人たちに見てもらって話して、理解してくれる人たちの協力があったお陰で、今まで続けることが出来たのだった。


 昨年11月末に、NPO法人「芸術家と子どもたち」というところから話を頂いて、ある小学校の特別支援学級の子どもたちとワークショップをする機会に恵まれた。

三日間にわたるワークショップは、私がこの15年間、積み重ねてきたことの集大成でもあった。

初めは私が作るヘンテコな空間の中、「なんだこれ〜!!なにやってんの?変なの!」と言いながら、子どもたちはそれぞれのペースで、毎回楽しんでくれた。

日を重ねるごとに、子どもたちのやりたい事が湧き上がり、こちらの思惑やペースなんていつものことながら、吹っ飛んでいく。

思いつく限りのアイディアを次から次へとその場で生みだしながら一緒に笑って過ごしているうちに、私の心も子どもたちの心もゆっくりほぐれていく。

自分のペースで「できる」という感覚だけにに囲まれた子どもたちは、いよいよ自由に、そしてユーモアが溢れ出す。

怪獣が好きな子どもたちが多いと聞いていたので、3日目に、机や椅子、ダンボールや布など、学校にある備品を使って、みんなで大きな怪獣を作った。

「どうやったら作れるかな?」と一緒に考えながら、気がつけば、みんながそれぞれに自分のできる技を駆使して、愉快な怪獣ゴロウ(子どもたち命名)が現れた。

できることだらけで作った即興の怪獣。それは、音楽的に言ったら壮大なセッションのはじまりはじまり。

完成した怪獣にありったけの雄叫びや不思議な声で鳴き声を作って遊んだ後、もう一度、バラバラにしていつもの風景に戻した。


楽しすぎた時間が名残惜しくて、アシスタントとして来てくれていた弟でミュージシャンのバロンが、最後のひと時を、楽しい芸で締めてくれることになった。

帽子をくるくる回す彼の姿と、嬉しそうに見つめる子どもたちや先生の顔を見ていたら、自然に「美しき天然」のメロディーが出てきて歌っていた。

そういえば、彼も子どもの時から多動児といわれ、イマイチ社会のルールに乗り切れず、いろいろ悩みながら生きてきて、今、ここにこんな感じで楽しく生きているんだなあと、しみじみその陽気な姿に見とれた。

ワークショップの後、先生やスタッフの方々と感想を話し合っていた時、先生が「このクラスの子どもたちは、それぞれのことは、それぞれのペースで出来るけど、一緒になにか一つのことを作るというのは、一度も見たことがないし、出来ないと思っていた。だからびっくりしたし、とても嬉しかったです。」と言っていた。

その言葉に、私がびっくりした。

そうか、ペースの違う人たちが何か一つのものを、それも限られた時間の中で一緒に作るって、ものすごく大変で難しいことだったのか。改めて、そこに気がつかされた。

でも、なんであんなに素敵な怪獣が出来たのだろう?


 全ての人は生まれてからしばらくは、日々少しづつ出来ていくことの中だけで生きている。

周りの人たちも、手放しで出来ることだけを見つめて、嬉しくて、喜んでくれる。

それが、いつしか、出来る人と比べられるようになって、「出来ない」が始まる。

そして「出来る」ということは、出来ないことが出来るという、そんな「出来る」に変わっていく。

その「出来る」は決して悪いことではなくて、社会の中で生きていくには必要なことだったりする。

みんなが大人になるにつれ必死になって、「皆と同じように出来ないことを出来るようにする」努力をして、スムーズに、また違った楽しみの中で生きていきたいと願うようになるのだ。

しかし、それは同時に、自分のペースで自分の中から勝手に湧き上がってくる「できる」の感覚に蓋をしていくようになるので、大人は時々自分を見失って不安になったりする。


自分の中から湧き上がってくる「できる」は猛烈に自由で楽しい。子どもたちは、それを人と共有出来た時、「わああ!!」と叫ぶ。

ただただ嬉しくて、繰り返し繰り返して、楽しみを生み出してゆく。もっとやりたくなって、今度は人を喜ばせたくなる。

本気で面白がる人がまわりにたくさんいたら、楽しみが倍増してゆくからだ。

そして、その繰り返しこそが「生きてるって楽しいな。」という実感になる。

「できることだらけ」という自分以外のペースに合わせなくてもいい時間の中で、とびきりのユーモアと喜びをを作り出す子どもたちと一緒に笑いあえるのは、その感覚を忘れて不安になりがちな大人の私には、本当に有難いことだ。

その感覚を思い出させてくれたことに深く感謝し、不安にならなくて良いんだと、他の大人たちにも伝えたくなる。

ねえ、一緒に思い出そうよ!と。わたしにできる音楽を通じて。

たまに、その「できることだらけ」の感覚を忘れていないおかしな大人がいたら、子どもたちも嬉しそうだしね。

あの時の子どもたちと一緒に作った怪獣ゴロウ。

あれは、「できることだらけ」を忘れないでいようと必死になっている私に与えてくれた、あのとびきり優しい子どもたちからの大きな愛情の形だったのだと、今になって、ようやくはっきりと気がついた。


ああ、生きるのって楽しいな。ありがとう。

ありがとうございます。

いよいよ、人生後半戦。子どもたちのご期待に添えるように、「できることだらけ」の感覚で、できるだけ逞しく生きていきたいのだ。

そして、そんな風に一緒に楽しんでくれる子どもたちや大人たちを、ますます増やしていきたいなあ。

そんな気持ちで今年を迎える事が出来ました。

みなさん、あけましておめでとう!!!!

                                                        ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。(今回がコラム最終話)


「完璧な日々」

 

 今治市にある港近くの商店街に友人家族が住んでいる。

造船で栄えたこの街も、今は三津浜商店街のようにシャッターが閉まっているところが多く、静かな町並みが続いている。

友人は今治に生まれ育ち、いったんは東京で働いていたが、帰郷して結婚し子供が生まれ、商店街で祖母がやっていた魚屋さんを改装し、そこで妻とともに子育てや仕事をしながら、お金だけでは得られない、豊かな時間が流れる毎日が過ごせるよう街の人々と関わりながら、様々な催し物を企画、開催している。

 彼が主催している「ハズミズム」という野外で楽しむ音楽イベントがある。今治市民の森という場所で開催されて今年で5年目になるのだが、なぜかいつも必ずと言っていいほど雨が降る。どうやらこの5年間で一回しか晴れたことがないらしい。おまけに今年は二日間の開催予定だったのだが、二日目は台風18号まで来てしまった。

イベント1日目に行くと、曇り空の下、彼はいつもの優しい笑顔で「まだ降ってませんよ!」と笑っていた。

雨の中での野外イベントほど、主催する者にとって大変な事はない。お客さんに怪我がないように、機材が濡れないように、出店している人たちに支障がきたさないように、出演者が気持ち良く音楽を奏でられるように、ありとあらゆる場面で気を配っているその姿は、本当に涙ぐましい。さすがは雨に慣れっこの彼らしく、むしろ雨を楽しんでいるかのようにさえ見える。

そんな彼の周りには自然とたくさんの友人たちが集まり、やっぱり雨だよね!予定通りだね!!今年なんか台風来たよねーと言いながら、皆それぞれの役割をテキパキ楽しそうにこなしている。実にたくましく明るい人たちが、みんな雨に濡れて笑っている。

彼の小学校1年生になる息子もスタッフバッチを誇らしげに付けて、あっちこっちをウロチョロしている姿が何とも頼もしい。

こんな気持ちのいい人たちが集う「ハズミズム」。私はもう来年を心待ちにしている。

 今治、松山、そして愛媛、はたまた四国のあちこちで出会った素敵な風景と、そこに住む人々。

みんなそれぞれの場所で、この今一瞬に生きていることを楽しんでいる。そんな姿を見るたびに生きる勇気をもらった私は、いつもこの歌が心から湧き上がってくる。

「どんな雨の日でも、あなたがいるだけでパーフェクト。悲しいことも苦しいことも、全てが私だもの。だから、生きてるだけでパーフェクト!」またいつかどこかで、皆さんにお会いできるのを楽しみに。ありがとうございました。


           ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「小さな映画館のある街」

 

私は子どもの頃から映画が大好きだった。地元の飛騨高山は、街にあった映画館が軒並みつぶれ、郊外に1館だけとなってしまった。自転車で片道1時間ほどかかる遠い映画館に、必死で貯ためたお小遣いを握りしめながら通い、大画面に見入っていたあの頃が懐かしい。

そんな私にとって、松山に越してくる理由の一つに、映画館がどのくらいあるか?というのがとても大切なことだった。調べてみると、なんと松山市はたくさんの映画館があるではないか! なおかつ、都会でしか観みられないような単館上映の小さな映画館もある。これは凄すごいことだと思った。地方では集客の見込めそうなハリウッドものや流行はやりの日本映画しか上映されない所が多く、世界中のさまざまな映画を上映している映画館というのは皆無に等しいからである。

そんな昨今、このような映画館がある街というのは、映画をこよなく愛する人々が住んでいるから存在しているのである。もう、長い時間自転車をこいだり、わざわざ都会に出向いたりしなくても、観たい映画が観られる映画館がすぐそばにある! そう思うと、自分の大事なところを守ってもらえるような安心感がある。

シネマルナティック。私が最初に覚えた松山の映画館の名前だ。先日も朝一番に映画を観に行った。ベルギーの地下鉄テロ事件に巻き込まれて亡くなった、ジル・ローラン監督の作品「残されし大地」。震災後の福島を撮ったドキュメンタリー作品で、静かに大きな愛情を持ちながら、放射能で汚染された大地の上に再び生きていこうとする人々を淡々と丁寧に撮った日々。

もともとサウンドエンジニアだったローランさんは、映画の中で余計な音楽を一切使用せず、立ち入り禁止区域で廃虚となった街の中で、今そこに生きているものすべての音が聞こえるように撮っていた。映画完成を待たず逝ってしまった彼が伝えたかった、生きることの意味を充分感じることができた、かけがえのない時間となった。

 芸術とは本来特別なものではなくて、こうして朝一番に思い立って街に行けば出合え、身近なところで感じられてこそ意味があると思う。だからこそ映画は素晴らしい。そんな映画を大切に上映してくれる映画館がこれからも街に存在することを切に願うばかりである。


                                                          ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「三津浜珍踊り」


 三津浜最後の夏のイベントといえば「珍踊り」。今年で7回目となるこの祭りは、三津浜商店街の若手グループ、三津浜クリエーターズの企画で始まった。

商店街を盛り上げて楽しくやっていきたい!というただそれだけの思いで7年続いている。地域の人たちが思い思いの仮装をして踊るのだが、珍踊りと言いうだけあって、ただ踊りが上手だけではいけない。どれだけ笑わせられるか、が大事なポイントだ。エントリーする人の年齢もさまざまで、幼児からお年寄りまでがこぞって参加している。

 初めて珍踊りを見た時、あまりの面白さに笑いすぎておなかが痛くなった。素人の芸とは恐ろしいもので、受け狙いや小手先ではないありのままの本気さが「珍」という形のダンスになる。

そして懐メロからテクノミュージック、ロックにアニメソング、今はやりの歌謡曲といった音楽に合わせて好き放題にのびのび踊るそのさまは、ある種のカオス状態になる。見ている観客も笑いながら手拍子しているうちに何とも言えぬ高揚感が高まってきて、ビールをかぽかぽ飲みながら、いよいよ笑いがこみ上げてくる。

 老若男女が皆で一緒になってげらげらと笑うその時間は、何とも言えぬ幸福なひとときだ。普段は、それぞれの仕事や生活をしていて、一緒に一つのことを楽しむ機会はそうそうない。

皆で心を合わせて、踊ったり歌ったりしているうちに不思議な喜びが湧いてきて、こうやって生かされている今に感謝したい気持ちになる。そしてその喜びや幸福感は「神様」という言葉でしか表現できない大きな存在を感じる。

ちっぽけな私たちが、同じ場所にたまたま居合わせて、一緒に笑ってすごしていること。それは本当に頼もしい。毎年、げらげら笑いながらそれを確認できる、素晴らしい祭りごとだと思う。

 地域に愛着を感じて生きるために、世界中にさまざまな祭りが生まれ、今に続いている。暗いニュースばかりが飛び交う昨今。いきいきとした大人たちが楽しそうに踊っているのを、キラキラした目で見ている子どもたちの姿がある「三津浜珍踊り」。大人になるのが楽しみだと思える子どもたちが増えるように、いつまでもこの祭りが続きますように。


                                                     ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「秋の海の教え」

 

9月になって、あっという間に秋がやってきた。子どもたちも学校が始まり、久しぶりに静かな昼間を過ごしている。夏から秋に季節が変わる時、なんとも言えぬ安堵感がある。温暖化が言われているこの頃、この暑い夏は終わらないのではないかと思っていたが、今年もちゃんと秋はやってきてくれた。日々の野菜も徐々に変わってゆき、体も季節に合わせて準備しているのがわかる。

三津の商店街にも穏やかな気配が漂う。野良猫たちもあくびをしながら、ああ、秋が来たよねえ、と私に話しかけている気がする。虫の音も、ロックな鳴き声で歌っていたセミたちから、静かなピアノ曲のような小さな虫の歌に変わった。子どもたちは夏の太陽を浴びて少し背が伸びていた。私は少し縮んだような気がしないでもない。

 これから冬に向かって、日差しや植物が美しい黄金色の季節になる。毎年増えていくシミや白髪やシワを眺めながら、私のこれらも黄金色なのだと思うようにしている。健康的とは若さを保つことではなくて、老いることを上手に受け入れて過ごすことなのではないかと思うようになった。そんなふうに感じられるようになったのは、この街に住むようになったからかもしれない。

 松山に暮らすまで、のんびり過ごすということをしたことがなかった。都会は常に活気にあふれ、何かしていなくてはいけないのではないかという焦燥感にかられる。ゴロゴロしているのは堕落しているのではないかと、自己嫌悪になったりしていた。

何かしら動いていれば、その時間はお金となって返ってくると信じていたし、若さと体力で何でも乗り越えられると思っていた。そんな力任せな私に、秋の瀬戸内海は穏やかな顔して、まあのんびりいこうや、とささやく。お金はちょっと足りないくらいがちょうどいいなんていうことも言っている気がする。

毎日少しずつ変わっていくことを楽しみなさいよ。せっかくこの街に住んでいるんだから。この黄金色の季節は生きていることの素晴らしさを味わうためにあるのだよ。ようやくその季節がきたんだよ。少しは落ち着いて腰を据えてみなさいよ。と、毎年、海が諭してくれたおかげかもしれない。

私は年々肩の力が抜けて、少しだけのんびりが上手にできるようになってきた気がする。「生きることの速度を感じて過ごしなさいね」。今年も秋の海が教えてくれた。


▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「夏の終わりの旅路」


 私は今年で歌手生活20周年になった。高知県在住の友人で歌手の矢野絢子さんも偶然20周年だというので、一緒にお礼参りツアーをすることになった。

この20年間というのは20代から40代へと、ひよっこがようやく大人になったくらいの感じであるなあと実感する。

人生の中堅どころになった今、世の中の仕組みや、人の心のありようが少しだけ分かってきたなあというそんな実感である。歌も、自分の成長と共に感じ方や表現がずいぶん変わってきた。

 今回の旅は「はじまりのおと」というタイトルだったので、初心に帰る気持ちで20年前に作った歌など久しぶりにうたってみたが、歌を作った時、頭では分かっていることがうまく声にならない不思議なもどかしさが、年月を経てスルスルと気持ち良く歌えたことに驚いた。

若さというエネルギーはたくさんのものを生み出せるけれども、まだ自分自身をよくわかっていないから、自分で作った歌でさえもそれを本当には理解出来ていないことが多い。時間が経たって、いろんな気持ちを痛いくらいに知ったとき、ようやく歌声に気持ちを含ませることができていた。それは勉強して身につけられるものではなく、年々の積み重ねでしか得られないものだったのだ。

今の歌声は歳年を重ねた分、歌の力としての説得力が、出会う人をとても喜ばせた。ああ、歌い続けることができて良かったと心底感じた瞬間だ。

懐かしい顔や初めての方にも出会えたが、もう二度と会えない人たちを巡る旅でもあった。

 20年前、小さな子どもだった人がすっかり大人になっていて、歌の話をしながら一緒にお酒を酌み交わしたり、皆で亡くなった人の思い出を語りあいながら、その人に出会えたことで今があるのだと気付いたり。そしてまた会おうね!と笑顔で別れる幸せな旅路。

これから何歳まで歌の旅を続けられるかわからないが、生きていることも死んでゆくことも、全部感じながらそれをまた歌にして運んでいこうね、と帰りの道すがら四国の夕焼けを眺めながら、歌う女たちはそれぞれの家路に就いたのであった。

                                               ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「ある家族の夏休み」

 

娘がお盆休みで帰ってきた。いつもは男ばかりの家庭に、年頃の可愛かわいいお姉さんがいると雰囲気が華やいでみんなウキウキしている。娘のお盆休みをおもいっきり楽しもうと、海へ町へ山へと遊びに出かけた。

私には子どもたちが4人いるのだが、上の2人と下の2人はお父さんが違う。そして最近再婚した夫との間には子どもはいない。夫は長い独身生活の果て、いきなり4人の子どもの父親になった。

 夫の生まれ故郷は西条市で、子どもの頃に遊んだ川へみんなを連れて行ってやりたいということになった。朝からわいわいとドライブしながら、どんどん山深くなっていく風景を眺めていると、深い緑色の美しい河原にたどり着いた。

みんな奇声をあげながら、川の中へ飛び込んでいく。あの冷たそうな水につかる勇気のない私は石の上に座って、観察者を決め込んだ。しばらくすると、自然に子どもたちは二手に分かれて、一方は石投げ、一方は泳ぐのに夢中になっている。普段から全く個性の違う子どもたちだと思っているが、ふとした瞬間に、父親の違う者同士の性格がくっきり分かれることがある。

上の2人はきちょうめんで凝り性なところがあり、炎天下も気にせず延々と飛び石が何個できたかに夢中になっている。下の2人はいつもケンカばかりしているくせに、お互いの浮輪をつないで、川底の流れを眺めてはひたすら奇声を上げている。母親は一緒でも父親が違うと、やはり何か受け継いでいるものが違うのかなあ、などと思いながら遠目でぼんやり眺めていた。

 夫は石投げが得意で、投げた小石は川の反対側までぴょんぴょんと見事に飛び跳ねていく。上の2人の子どもたちが、おお!!凄すごい!!!と歓声を上げる。そして夫のように見事な飛び石ができないものかと投げてはみるが、なかなかうまく飛ばない。石の大きさや持ち方や角度など、夫の飛び石レクチャーを受けては何回も挑戦している。

一方で下の子どもたちが、「お父さん、お父さん、見て見て!」と叫ぶ。どうやらすごい石を見つけたらしい。子どもの水中眼鏡をむりやり身につけた夫は一緒に川底を覗のぞき込んでいたが、いつの間にか流れに身を任せて浮いたりしている。子どもの頃に完全に戻った顔をして気持ちよさそうだ。

私は5人の子どもたちを眺めながら、ああ家族って面白いなあと一人、ニヤニヤ風に吹かれながらカルピスを飲んでいる。空には夏の雲と秋の雲が混ざり合い、私の家族のまねをして、いろんな形になって楽しそうに浮いていた。

                                             ○      ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。



「息子に贈る言葉」


 一番末の息子が6歳になった。松山に越してきたのが息子が生まれて半年経たった頃だったので、あれから5年半になる。この5年半の間に、さまざまな人に出会って今、ここに至ることを思うと感慨深い。

子どもたちは瀬戸内の海風をたくさん吸って、楽しい大人たちにあたたかい言葉をかけてもらって、今日もすくすくと育っている。

 人の運命は暗号のようなもの、暗闇から飛び散る星のようなものだとノルウェーの画家ムンクが言っていたが、宇宙から見たらその飛び散った星がかすかに瞬くようなわずかな人生なのだ。

この5年半もあっという間に過ぎ去り、忘れてしまったこともたくさんある。でもこうして毎日、忘れてしまうような何かの積み重ねによって今日があり、うまくすれば明日もあるのだ。毎日が本当は奇跡のようなものだと思うと、今日という時間が一瞬光る星のようだなと思う。

 松山に来た時、最初に見た夜空にたくさん星が見えてうれしかった。街中でもこんなに星が見えるなんてと驚いたのだ。私の生まれ故郷の空にもたくさんの星が見えていたが、関東に移り住んでからしばらく星を眺めることを忘れていた。あの排ガスの上にもきっと満天の空があったのに、見えないというだけで存在すら忘れていたのだ。

 人はどんな場所にもそれぞれの理由があって住んでいる。そして、その時々に出会う人によってつながっている。どんな人に出会ってどんな場所で生きていくかを決めるのは6歳の息子にはまだ早いが、いずれは自分で決めた場所で幸せに暮らせるようにと心から願っている。

人がこんな場所で生きていきたいと自分で決める時、子どもの時代に経験したことや出会った大人たちとの関係が、その後の人生に大きく影響していくと思う。良いことも悪いことも悲しいこともうれしいこともすべてが、忘れてしまうような毎日の中にあって、それが人生を導く見えない地図となっている。

息子のこれからの人生をおもうとき、見えない地図と空に輝く一瞬の光を頼りに、どんどん歩き続けて、いつか好きだと感じられる場所にたどり着いてほしい。何が起こるかわからないからこそ人生は楽しいと信じられる大人になりますように。

「明日は明日の風が吹く」という言葉を贈ります。




                                       ○      ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「夏休み」

 

 夏休みに入り、子どもたちがうだうだとしている。私も一緒にうだうだしたいが、あれこれとやることがあるので、うだうだ星人たちを横目で見ながら自分の仕事に没頭している。

それにしても、あんまりうだうだして宿題も一向にはかどっていない様子なので、外に連れ出すことにした。夕方の4時といっても外はまだまだ暑く、雨の降らなさそうな雲が空を悠々と泳いでいる。

 私にはお気に入りの場所がある。白石の鼻と呼ばれている海岸だ。奇妙な形の岩がゴロゴロとあり巨石好きの私にはたまらない。いろいろと伝説や逸話がある場所のようだが、子どもを連れてちょっとした磯遊びや、パシャパシャと海水浴にはもってこいの場所なのだ。

夕方の波は穏やかで、興居島をはじめとした島々がくっきりと見渡せる。遠くに船が行き交い、太古の昔からある巨石群がどうどうと佇たたずんでいた。子どもたちは子犬のように波に向かって駆けてゆく。

大きな巨石に見守れられるように、小さな子どもたちが波打ち際で戯れているのを見ると、ああ、瀬戸内に来られてよかったなあと、ちょっとセンチメンタルな気分になる。

 とくに信仰のない私だが、いつもこの場所に訪れた時は、ここに祀まつられている神様に手をあわせるようにしている。そうすると、とてもすがすがしい気持ちになって、安心して遊んでもいいような心持ちになるのだ。

子どもの水中眼鏡を借りて私も海に浮かんでみる。水の中をじっくり見ながら浮かんでいるとちょっと空を飛んでいるような気分だ。ぷかぷかゆらゆら揺られていると不意に子どもの頃の夏の記憶がよみがえる。

風鈴の音色、ひぐらしの声、ひんやりした森の中、土の匂い、ばあちゃんの顔、朝顔の青、虫の死骸、ほおずきの赤い実、つけっぱなしのテレビ、たいくつな昼寝、ふと目を覚ました時に見た夕焼けの空。

生まれ育った飛騨には海などないのに、そんな記憶が次々と浮かんでは消えた。ああ、あの頃のなんでもない夏休みは本当に幸せな日々だったのだなあ。

子どもたちが「おかあさーん、おかあさーん!見て見て!!」と呼んでいる。

よし、帰り道はうまいスイカを買って帰ろうか。


                         ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「旅のはなし その3」


 長野県松本市にある音楽文化ホールには素晴らしいパイプオルガンがある。このオルガンの専属奏者の原田靖子さんとは、横浜寿町という街で知り合った。わたしは当時、寿町で「アナーキーママ」というスープカフェをやっていて、その街のホステルのフロントを借りて毎週金曜日にいろいろな人たちとスープを飲みながら、あれこれ話したことを題材に歌を作っていたのだ。

ある年の暮れ、アナーキーママ忘年会ということで、フロントの小さな空間に人がぎゅうぎゅう集まってコンサートをした。その時偶然、彼女はそこに居合わせたのである。

あんまりお酒の強くない原田さんは、街の人が勧めてくれたお酒を飲み、顔を真っ赤にしてわたしの歌を聞いていた。

ライブが終わった後、興奮気味の真っ赤な原田さんは開口一番に「サトコさん、わたしと何か一緒に作りませんか?」と言った。

初めてお会いしたけれど、彼女のただならぬ情熱に押されて、わたしは二つ返事で「いいですよ!」と約束をすると、後日、打ち合わせの連絡が来た。彼女に言われた場所に行ってみると、巨大なパイプオルガンのホールに通された。そこには、白い顔をしてニコニコ笑っている原田さんがいたのだ。小さな足踏みオルガンを弾きながら歌っていたわたしは、あまりの楽器の大きさと迫力にクラクラした。そこにもう一人、新井英夫さんというこれまた個性的なダンサーの方も加わり、三人でオルガンと歌とダンスの音楽物語「字のない手紙」という作品をつくることになったのだ。

ああ、何か新しいことが始まる!そんな予感がした。

あれから7年、いろんなパイプオルガンのあるホールで上演を続け、そして今年の夏、再び松本での公演が決まった。今回の公演は7年という時間の中で、お互いがどれだけ充実した日々であったのかが、音や踊りに如実に表れた舞台だった。

阿吽の呼吸で全てが進み、ホールスタッフの方々との心地よいやり取りの中で、作品はどんどん生き返っていく。

公演の最後に原田さんのパイプオルガンによる渾身の独奏をステージ横で聞いていたら、涙が出てきた。

「字のない手紙」という言葉が思い浮かんだ時、この手紙はどこに届くのだろうと考えていたが、気がつけばそれは、人生の旅中のわたしたちのところに、そっと届いていたのだった。

                      ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「旅のはなし その2」


 先週、長野県松本市にある音楽文化ホール企画公演のために、1週間滞在した。

私の出身は飛騨高山という街で、松本からは山を挟んだ向こう側に生まれ育ったので、松本市は馴染みが深かった。

 海のない山に囲まれたその街の匂いは、駅前であっても森の香りがした。気温は高かったが湿度は低く、空気はさらさらとしていて気持ちよいので、思わず深呼吸をした。何だか生まれ故郷に帰って来たような気分。 

 私が歌い始めた20年前、よくこの街でライブさせてもらった。

縄手通りという川沿いにある、とても風情ある場所に「たつのこ書店」という絵本屋をやっているおじさんがいて、皆に「かっぺいさん」と呼ばれていた。

酒が大好き、説教大好き、世話も大好きな人で、わたしのことも面白がってくれて、よくライブを企画してくれたのだった。

その時に知り合ったかっぺいさんの友人たちは、貸レコード屋さん、精神科のお医者さん、農業をやっている人、陶芸や木工などをやっている人、演劇に夢中な人、そば打ち職人などなど、松本の文化を支えている個性的な人たちばかり。北アルプスの山並みのように、おおらかでたくましく楽しそうに生活している風景を垣間見て、若造だったわたしは、心のどこかで、いつかこんな風に生きられたらなあと憧れた。

 久々に連絡してみると、懐かしい顔が集まった。みんな、白髪もシワも増えてはいたが、相変わらず若々しく、いよいよ優しい眼差しで、お酒を酌み交わしながらお互いの近況を語り合った。そして、久しぶりにわたしの歌を聴いてくれた友人たちは、「サトコ、歌も体も大きくなったなあ。素敵になったなあ。」と大笑いしながら嬉しそうだった。

わたしはかなり照れくさかったが素直に「ありがとう。」と言った。

今回、松本でのライブの始まりに、ある文章を語った。

「遠いところに行った人と、ずっと同じところにいたい人が出会って、同じところにいる人を、遠いところに行った人が時々訪ねる。

その時の道を思うと、道はあたたかい。

どんなに人が道に迷っても、道自体は動かず、ゆく人に黙って踏まれ続ける。」(東直子著作エッセー「耳うらの星」より)

いつも旅人を迎え入れてくれる友人たちに捧げる。

                       ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「旅のはなし   その1」


 旅人の話は面白い。  

話を聞いていると自分もその場所に行ったような気持ちになる。町の風景や食べ物の匂い、異国の言葉の音色などを想像しながら聞いているとワクワクする。

 三津に住む友人の一人に、旅が大好きな女性がいる。もともと添乗員の仕事をしていたので旅慣れていて、ひょいと隣町にでも行くように南米まで行ってしまう。

現地の人とすぐ仲良しになり、踊ったり恋をしたり、家族のような付き合いをしながら滞在していた時の土産話が本当に面白い。

 ついこの間も旅に出かけた。きっかけは、高知にある「キューバ」という喫茶店だった。そのお店に入ってみると、至って普通の喫茶店である。店内の雰囲気と「キューバ」という店名のギャップに興味をそそられた彼女は、お店を営んでいる80歳のおばあさんに、持ち前の人なつっこさで話しかけた。

どうやらおばあさんのご両親がキューバに移民として渡り、ある小さな町で床屋さんを営んでいた。おばあさんはキューバで産まれて、子ども時代まで住んでいたとのことだった。「もう少し若かったら、もう一度キューバに行ってみたいわねえ」の一言を聞いた彼女は、よし、私が代わりに行って、おばあさんが住んでいた町を訪ねてみよう!と思いついてしまった。

さっそく、その町を訪れた彼女は、ほんの少しばかりの情報を頼りに、おばあさんが住んでいた家を探した。つたないスペイン語で、その町の人たちに声をかけ事情を説明したら、町のひとたちが、この面白い日本人の目的に興味を持ち、あっという間に家のあった場所にたどり着けたというのだ。

床屋さんだった場所は、今はもうすっかり別の店になっていたけれど、隣人だった人が、そこに日本人の床屋さんがあったことを覚えていたのだ。

「とてもきれい好きで親切な床屋さんで、丁寧に書かれた手紙をもらったことがあるのよ」と70年も前のことを、昨日のことのように話してくれたらしい。

町の写真を土産に持って帰った彼女はさっそく、おばあさんに会いに行った。「おばあさんは驚きながら、涙をながして喜んでいたんだ」。彼女は嬉しそうに笑っていた。 きっと、70年ぶりに、おばあさんの心が高知からキューバに行けたのだと思うと、胸が熱くなった。                                                

                    ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「女のランチ」


 友人に「ランチしましょう!」と誘われた。

私より10歳ほど年上の目のキラキラしたその人は、横浜にいたころの知り合いだった。

横浜でお会いしたのは、彼女の本の出版記念イベントで歌った一回きりだったと思うが、このたび偶然、三津でバッタリ出会ってしまった。

お互いに、何となく顔を覚えていたのだが、何年前に会ったのかも忘れるくらい久しぶりだったので、まさか三津で偶然会えるなんて!と再会を喜びあったのだ。

彼女はもともと松山出身で、私がこちらに移住して来た頃、彼女もまた故郷に帰ってきたのだった。

それ以来、たびたび三津で顔を合わせるようになると、いろいろと話がはずみ、本日のランチに至ったのである。

 出会いとは不思議なもので、すぐ近くにいて全然会わない人もいれば、何年も連絡を取り合っていなくても、こうしてまた一緒にご飯を食べたりするのである。

「紹介したい人がいるんだ。」と、私より20歳ほど年上の、これまた素敵な女性が同伴だった。

 三津商店街の入り口にある、とても美味しいイタリアンのランチ。彩り美しく盛られた料理を味わいながら、まるで古くからの友人のように、女三人の贅沢ランチが始まった。

 それぞれの人生に起きた大変だったけど面白い話、最近読んだ本、映画の話、子育ての話、パートナーの話、仕事の話と、話しながら、味わいながら、おしゃべりはいよいよ止まらない。

世代を超えた女の話は実に面白い。

さっきまで心揺さぶられるような深い話をしていたかと思えば、このパスタ美味しいわあ~と、今、目の前にあることに、あっという間に話がすり替わる。笑っては泣き、泣いては笑って、気がつけば2時間が過ぎていた。

最後にきっちりデザートとコーヒーを流し込み、気持ちも100%充電されたころ、この贅沢なランチは終わった。

一人になって、彼女たちの話をしみじみ思い返してみる。それぞれ全然違う生き方だけど、たくさん共感しあえる不思議。

二人の人生の言葉は、美味しいランチと一緒になって、わたしの体の真ん中に栄養となっていたのであった。ごちそうさまでした。

                  ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「わたしのお母さん」


肝っ玉母ちゃん。と言えば、私の母親に出会った人は、誰もが納得する見本のような人である。

バリバリ働き、豪快に笑い、酒を飲み、歌い踊り、そして怒る。

猛烈に怒るので、大のおとなもこの母に怒られたらタジタジなのである。

幼少の頃、親戚の集まりで義父とつかみ合いの喧嘩をし、叔母さんらが必死に止めていたことを覚えている。

近所の山で、迷彩色の服を着てサバイバルゲームをしていた高校生男子5人を、家の前に並ばせて1時間ほど説教しているのも目撃したことがある。皆深く頭を垂れていた。

夫婦喧嘩をして、父が真冬の夜中に家を追い出されたこともある。そして私自身が、母の愛情にどう付き合ったら良いのかわからず、ビクビクしながらいつも悩んでいた。

私を含め4人の子どもたちは、とにかく母親を怒らせないようにすることに全身全霊で気を使っていた。怖すぎて誰もグレたりしなかった。

やがて高校を卒業すると、全員見事に親元を離れ、誰一人ホームシックにかからなかった。「自由って素晴らしい!」と皆、その後の人生をやりたいように生きている。

 離れてみると、実のところ母は大変な寂しがりやだった。あんなに怒っていたのに、家族が大好きだったのだ。

子どもたちがいなくなると、父と一緒にハイジが出て来るような飛騨の山の中で住み始めた。

やがて、虐待されていた犬や捨て猫を飼うようになった。もの凄く目つきの悪いヤギも飼っている。

育てることをやめたくないらしい。

そして絵本美術館を開き、いつも人が訪ねて来るような家に暮らして、毎日父と一緒にいるのにも関わらず、しょっちゅう電話がかかってくる。もう、40をとうに過ぎた娘が心配で仕方ないようだ。

 私が松山で再婚して結婚パーティーを開いた時、父と母は飛騨から飛行機に乗って飛んできた。

そして瀬戸内の海を眺めながら、「あんたはいろいろある人生やけど、ようここまで元気にやってきたな。こんないい場所で、たくさんの素敵な人に囲まれて幸せやなあ。まあ、今ある幸せは、お母さんが産んでやったおかげやでなあ。」

と嬉しそうにペロっと舌を出した。





「わたしのお父さん」


先週は母親について書いてみたが、今週は父親について書いてみようと思う。

母は肝っ玉母さんの代表ともいえるべき存在なのだが、父は「優しい父さん」の代表である。

 大学を卒業してから定年まで、ずっと教員として教育の現場で働いてきた。時代とともに変わっていく教育のあり方や、社会と子どもたちの関わりに心血を注いでいた。

毎日、忙しすぎて母に怒られてばかりいたが、口答えなど一切せず、黙々と朝ごはんを作ったり、子どもの送迎をしたりしていた。

 ある時、生まれたばかりの弟の布おむつを、夜の河原で洗濯していたら不審者と思われ、警察官に何をしているのか?と質問され、子どものうんこを洗い流しています!と言ったら、ご苦労様です!!と、敬礼されたと嬉しそうに話していた。

そんな父は、お酒も大好きで、歌もとびきりうまい。

どんなに母にひどく怒られても、お酒を飲んで、歌って、ダジャレを言ってニコニコと笑っていた。

学校でも、授業の途中で生徒たちと歌ったりダジャレを披露していたらしく、道端で卒業生に出会うと、皆親しげに、父と話していた。

 母の事を「いつも夢があっていいなあ。」と言いながら、定年後は一緒に飛騨の山奥で絵本美術館を開き、畑や庭仕事に精を出し、コーヒーを煎れたりクッキーを焼いたりしていた。

 そんな父が癌になった。

家族が一斉に慌てた。特に母は父よりも元気がなくなってしまった。

病室にお見舞いにいったら、母が父のベットに寝転んで、父がかたわらで椅子に座って本を読んでいた。

どんな状況でも相変わらずの様子に、私は少しホッとした。

様々な治療のかいあって進行は止まり、今はまたいつも通りに畑仕事をしている。毎年送られてくる父の作った野菜と手紙。

手紙には「ささげ(大きなインゲンの名前)を捧げます。」と達筆な文字で書いてあった。

私も瀬戸内の魚を刺身にして送った。

父から電話で「こんなうまい魚、食べた事ない。酒がすすんで困るでなあ。」と笑いながら言っているそばで母が「調子にのらんこっちゃっ!」と怒っているのが聞こえた。

 相変わらず。と言えるのはなんと幸せなことか。

はやはや、いつまでもまめでおってな。

               ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。



「ツバメの巣」


夫が借りているアトリエの入り口にツバメの巣があって、毎年子育てにやってくる。二羽でひっきりなしに子どもたちにエサを運んでいる様子を見ていると、わがことのように思えて、ひそかに応援している。夏の中頃、巣が空っぽになると、ああ、今年も無事巣立ったのかとうれしくなる。

 私の知り合いは自営業の方が多く、近所の友人も皆、夫婦でお店をやっている。三津の商店街も、ご夫婦で営んでいる方が多く、それこそ何十年と年季の入った店から、まだ始めて2年のお店までさまざまな夫婦の形を目にする。

ぎょうざ屋、飲み屋、イタリアン、フレンチ、じゃこ天屋、器屋、喫茶店、洋品店、パン屋、修理屋etc。

いろんな商売をそれぞれが夫婦一丸となって、毎日顔を突き合わせてがんばっている姿を見かけるたびに、あのツバメのつがいの様ようだなあと感心ひとしきりなのだ。

 全くの赤の他人だった二人がどういう訳か夫婦となり、生きていく糧もこれでやっていきましょう!と、人生丸ごと二人で決めて毎日商売をする。と言えば簡単だけれども、これがなかなか大変そうだ。

商店街の皆で飲んでいると、晴れの日もあれば雨の日もあるように、あんなこと言われて腹が立っただの、こんなことされてうれしかっただの、まあ酒のさかなには困らない話がてんこもりなのだ。

ちまたで売られている流行のビジネス本や人間関係をうまくやるにはなどといった題名のついた本を買うよりも、この友人たちの夫婦の会話を見ていれば、ほぼ答えはそこにある。

一番近くにいる他人と商売をすることほど、簡単で難しいことはないようだ。そこには、男と女の考え方の違いから、人との距離感の取り方やバランス、仕事の役割、お互いへの尊敬の気持ちを保ち続けるコツ、日々の楽しみ、お金への価値観など、人生を生きていく上での答えがたくさんあって、そんな姿をまぢかで眺められることは、明日への勇気が湧いてありがたい。

 夫婦とは、何十年かの人生を共に過ごすためにどう楽しくやっていくかの最初の集まりだと思う。

そして、あのツバメのつがいのように仕事が終わったあと、空っぽの巣を一緒に眺められる相手なのだと思うと頼もしい。

(中ムラ サトコ・音楽家)

            ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「小さな本屋さん」


飛騨高山に、ピースランドという絵本屋がある。私が高校生の時からよく通っていた。

その本屋は絵本の他にも、詩集や哲学、音楽、世界中のあれやこれやと、当時なかなか手に入らないような本がたくさんあって、飛騨の山奥で夢ばかり見ていた私には、社会の窓ともいうべき存在だった。

そこの店主はとてもきさくな方で、仲良くなると店番など頼まれるようになった。店に置いてある本をじっと眺めると、それは店主の頭の中を覗いているようで面白い。私は夢中になっていろんな本を読み、店主の教えてくれる音楽に耳を傾けた。そして、店主がいれてくれる美味しいコーヒーをすすりながら、大人って楽しいなあとワクワクしたのだ。 

 今思えば、あの時の体験が私のアイデンティティーといわれるものになっている。子ども時代に出会う大人たち、とりわけ自分をさらけ出して生きている大人に、たくさんの感性を育ててもらったような気がする。

 松山には、これまた面白い本屋がある。大きな本屋もあれば、小さな本屋もある。

ことに小さな本屋は、やはりそれを営む店主の思想や趣味がじんわりとにじんでいる。だから、欲しい本を探すというよりは、知らない本を見つけるために行く本屋だ。

今時は、なんでもグーグルで簡単に探せて、アマゾンであっという間に買い物が出来るが、知らない面白い本に出会うには、こういった街の小さな本屋でしか手に入らない。なおかつ、通ってその店主と仲良くなることで、さらに興味深い本に行き当たる。

最近はなんでも二極化しているといわれるが、電子書籍がどんどん進む一方で、こういったわざわざ手間暇かけて出会う本、それも紙の本、更には古本など手にすると、匂いや質感、印刷やデザインなど細部にわたって人の手を感じて嬉しい。 

 人間は便利さを望む反面、こういったわざわざ出向かないと手に入らないものも欲しい。どんなに生活がデジタル化しても毎日の営みは太古の昔から変わらない。起きてご飯を食べて誰かと話してまた寝る。このシンプルな繰り返しの中に生きがいを見いだすのは、結局、人のぬくもりなんだと思う。

 本の存在は、人間そのもののような気がする。

         ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「健康とは何かしら?」

 

よく晴れた朝、5歳の息子を自転車に乗せて保育園へ向かう。

朝の風が心地よく、三津の商店街を駆け抜ける。

息子が私に語りかける。「お母さん、晴れのいい匂いがするね。」

ああ、なんて健康な人なんだろうと思う。心がこんなに晴れやかな人と話をすると気持ちがいいなあ。

そうだ、確かにいい匂いがする。潮風の匂い、花の匂い、鳥が羽ばたいている匂い、静かな路地の匂い。

商店街ですれ違う人に挨拶すると、みんな笑顔で答えてくれる。 

 最近、スマートフォンやパソコンを眉間にシワ寄せて眺めてばかりいた私は、すっかり不健康な人になっていた。

SNSの健康についての記事を読んでは、ああコレが良いのか、コレが悪いのかと知ったつもりになるだけで、体はどんより重くなっていく。おまけに老眼もぐんぐん進んだ。

高価なサプリメントを買うよりも、朝、こうして息子と自転車に乗って風を吸い込むだけでこんなに心も体も軽くなるではないか。しばらく携帯をいじるのはやめて、もっと目の前にあるものを眺めよう、と心に決めた。

 商店街を抜ける少し手前に不思議な植木がある。キョウチクトウの木なのだが、驚くほど沢山の蝉の抜け殻が付いている。よく見ると接着剤でとめてあり、これはどうやらオブジェのようだ。このごろはウズラの卵の殻もついている。とても気になって通るたびにちょこちょこ眺めていたある日、このオブジェの制作者に出会うことが出来た。

野球帽に手書きで「M」と書かれている個性的な帽子をかぶっているおじいちゃんだった。

「この植木、凄いですねえ!」と話しかけると、ニコニコ笑いながら「人が気にもとめんようなもんを集めるんが好きなんよー。蝉の抜け殻もぎょうさん集めたで、これにくっつけてみたんじゃ。」と説明してくれた。「まだあるぞ!」と家の奥から大量の抜け殻を入れたガラス瓶や、ペットボトルの蓋で作ったオブジェも見せてくれた。いろいろ話してくれるおじいちゃんはまるで少年のようで、つやつやとしたほっぺをしていて、健康そのものだった。

 心や体が元気でいられる秘訣は、どうやら見過ごしてしまうようなものを上手に見つけられることらしいですよ。

      ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「光と影のある街」

 松山に越して来る前は、横浜にある寿町という日雇い労働者の街に住んでいた。この街の近くには中華街、コリアン街、タイ街、山手の方に行くと、インターナショナルスクールや豪邸が立ち並び、一歩路地を挟んだむこうとこちらでは、全然住む世界が違っていた。寿町にはアルコール依存症のおじさんが沢山住んでいて、一見すると治安が悪そうで、気軽にあまり立ち寄らないようなところだった。

 街の職安広場前に素晴らしい保育園があった。暗証番号を入れないと中に入れないのが当たり前の昨今、保育園の門は常に開かれていて、街のおじさんたちが子どもたちの見守り隊となって、毎朝おはよう!と声をかけてくれた。四季折々の行事も一緒に楽しんだ。

いろんな国のいろんな事情を抱えた子どもたちも沢山いて、誰も人と違うことに対して余計な干渉はせず、でも何かあったときはすぐ手を差し伸べてくれるようなところだった。

出稼ぎに来て体を壊したり精神を病んだりして、故郷に帰ることも出来ず、ただただ酒の力に頼ってなんとか生きているというような人たちが集まっていたが、それでも仲良くなってみると、とても優しかった。

 保育園はこの街で40年以上やっていて、園長先生はいろんな人生を目の当たりにしてきた。先生は常々「良くしようと思うのはやめた方がいい。」とおっしゃっていた。その言葉が私の中にずしりと沈み込む。

長年大変な苦労をしながら寿町に携わった先生は、驚くほどの包容力で街の人たちと関わり続けた。そして外からやってくる中途半端な善意の人やボランティアという名の自己満足には厳しかった。今、そこに生きている人に対して常に同じ目線でよりそうような、そんな環境の中で、子どもたちはのびのびと逞しく育っていた。

 三津にも同じ匂いを感じる。多くのよそ者たちが行き交い、いろんなことがあって、今は静かに佇むこの街。猫や子どもたちが路地で遊ぶ日だまりがある街。シャッターは閉じているけれど街全体がどこか開かれたような包容力を感じるのは、街の影の匂いがそうさせているのだろう。「良くしようと思うのはやめたほうがいい。」街の影が優しく私に語りかける。


    ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「浪花節子育て論」


 私は子どもが4人いる。皆、それぞれに個性豊かで面白い。と書くと余裕のある母親と思われそうだが、実際には振り回されっぱなしのてんてこ舞いで、毎日あたふたしている。

一番上の娘が20歳、一番下の息子が5歳。大体5年おきに子どもに恵まれた。 

娘は全くと言っていいほど手のかからない人で、学校大好き、勉強大好き、そしてどんどん自分で進路を決めて、今、京都で暮らしている。私は学校が苦手で自意識過剰な子ども時代を過ごしたので、こんなに手のかからない娘が不思議でならなかった。子育てって思ったより大変じゃないなあ。なんて余裕だったのもつかの間、その後にやって来た息子たちに驚いた。もうびっくりするくらい手がかかるのである。

長男は気だても良いし優しいが、重度の心臓障害があり、青白い顔でいつも体の心配がつきまとう。二男は体は丈夫だが発達障害と言われ、こだわりが強く、言葉のコミュニケーションが苦手で、理解されないと怪獣のように吠える。一番下の息子はほがらかでひとなつっこいが、甘えっ子のまだ5歳。

「4人も子育てしたらベテランでしょう。」なんて言われることもあるが、毎日が怒濤のように過ぎ去り、ああ、子育てって修業だなあと背中もすっかり丸くなった。

気がつけば20年間、子どもにご飯を食べさせる為に生きてきた。若かりし頃の理想なんぞは吹っ飛び、とにかくみんな元気で大きくなれば良い。多くは望まない。そのかわり、私もやりたいようにやるからついてこい!といった具合で、母親というより、親分のように子どもたちをあちこち連れ回しながらなんとかやってきた。

 横浜から松山に越して来たときは母子家庭で、おまけに歌をうたうなどという不安定な商売。本当にこんな状況で育てられるのだろうか?と瀬戸内の海を眺めるばかり。

 そんな折、松山で出会った人と再婚し、膨大な不安は薄らいでゆき、なんとかなるさの笑顔が増えたある日。

言葉の苦手な二男がふと「お母さん。お父さんと結婚出来て幸せだねえー。」と寅さんにそっくりな口調で励まされた。思わず「浪花節だよ、女の女の人生は~。」と口ずさむと、「何よそれ!」と嬉しそうに笑っている。

ああ、やりがいのある人生に今日も乾杯!

                                        ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「味の記憶」

松山の柳井町商店街を抜けた石出川沿いの森の端っこに、小さなお惣菜屋さんがある。自宅のガレージを改装し緑に囲まれた穏やかなところだ。「やの家」という控えめな看板の奥に赤いエプロンをつけた素敵な女性が店主。そこは彼女の宝箱のようなところで、美しい物や気になる切り抜きが壁に貼ってあり、色とりどりのお惣菜がにぎやかに並んでいて、何とも楽しく不思議な店で、いつも行くたびにキョロキョロしてしまう。

 数年前、友人の結婚式で彼女の料理を初めて食べた。どれも美味しかったが、特に気に入ったのが、おからと一口サイズのコロッケだった。

ばあちゃんっこだった私は、いつもご飯に豆の煮付けやひじき、漬け物に焼き魚などが出てきた。小さい頃はそれがあまり嬉しくはなく、ハンバーグとか唐揚げに憧れていた。ただ、ばあちゃんの作るおからが大好きでよく食べた。私にとっておふくろの味はばあちゃんの味なのだが、そのおからと同じ味がしたのだ。なぜ同じ味と感じたのか不思議だが、味の記憶に出会ったときにとても幸せな気持ちになった。

 それから縁あって彼女と親しくなり、ちょいちょいお店に通うようになった。息子達は、やの家の一口コロッケが大好きでたくさん買ってもあっという間になくなる。自分でも作ってみたが何かが違う。コツを聞いてみたが、「簡単よ〜」と言うばかりでそうはならない。

このコロッケは彼女の息子さんも大好きだったようで、たくさん食べられるようにと一口サイズにしたそうだ。そのおかげで大きくなった息子さんは父親になった今でもそのコロッケが大好きだそうな。きっと細やかな愛情の手間ひまが味に入り込んでいるのだ。

 

こだわりのある立派な料理も大好きだけれど、日々口にする生活のご飯は体の奥深くに染み込んでいて、それを食べてみんなは生きている。味の記憶は何万とあり、作る人食べる人それぞれの想いがいろんな人生となって繰り返される。

息子たちの記憶の中に、このコロッケの味が引き継がれるのだと思うとなんだか嬉しい。

 

さて今日もあのコロッケを買いにいこう。おからは私が作ってみよう。ばあちゃんの味とやの家の味の贅沢ごはんだよ。たくさん食べて大きくなあれ。

                                       ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「鉄線の花咲く街角にて」


私はお年寄りの姿が好きだ。のんびり歩く背中を眺めるとほっとする。お年寄りの作った鉢植えだらけの庭や、不思議な手作りの物を発見するのも楽しい。空き缶で作った風車や、食品の袋の口を止めるこよりでつくった紐など、ありとあらゆる工夫に満ちた玄関先に出会うと、ついついじっくり眺めてしまう。  

 三津にかよばあと呼ばれているおばあさんがいた。大変お元気な方で、いつも目が合うと猛烈な勢いで話し始める。初対面のときから、まるで昔からの知り合いのように話しかけられたので、ついついその場で一時間くらい立ち話してしまった。話している内容は方言もあるからか、半分以上わからない。それから、会う度に話しかけてくれるのだが、どうも同じような内容らしい。最後には必ず子どもはどやしつけてもいいから大事に育てろと言う。声もだみ声なので、一見すると怒られているように聞こえる。私はただひたすらに頷く。 

そんなかよばあを最近見かけなくなった。かよばあがいつも座っていた街角を通るたびに、どうしているかな?と気にかかる。そして寂しい。 

 三津は古い町並みや路地、空き地などがあって、昔ながらの生活を垣間見ることが出来る。新しい家と江戸時代からある家が並んでいたりして何とも不思議な空間だ。

取り壊された家も多く、空き地になった場所は隣の家の壁にかつてあった家の跡が残っていて、ここにどんな生活があったのかを想像してみる。空き地には雑草が勢い良く伸びて、虫の鳴き声がする。ここに住んでいた人の声が、虫や草の生き様と重なる。

 当たり前のようにやって来る日々の繰り返しが、気がつくと思い出になっている。当たり前は実は当たり前ではないことを、空き地や、かよばあが教えてくれる。誰かが亡くなったり病気になったりして、いつもの生活は失われていく。そしてまた新しい生活と共に生きるのだが、そこに昔一緒に生活した人や風景の思い出があると安心して暮らせる。

お年寄りが紡ぎだす世界は、その思い出が沢山詰まっていて、ばあちゃん子だった私には、この風景がなくてはならない存在であることに気がつかされる。

 ばあちゃんが好きだった鉄線の花があちこちに咲き始めた。街のあちこちに、私の風景がある。

                                 ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「わたしの相棒」


7年間乗った空色の車を手放すことにした。横浜から松山まで、私と子どもたちを運んでくれた大切な車だった。地球2周分乗ったので、あちこち傷だらけだったけど、エンジンの調子はすこぶる快調だった。植物が伸びるように7年の間に子どもたちもぐんぐん伸びて家族も増えて、どうしても狭いので大きな車に乗り換えることにしたのだ。

育ち盛りの息子たちが、車内でいろいろやらかしたおかげで、あっちに染みこっちに傷、そして得体の知れないにおい。

めったに掃除もしなかったので、最後はピカピカに洗車した。

まだまだ乗れる車を手放すのは心が痛む。最後のお別れのとき、何とも言えぬ寂しさがこみ上げてきた。 ただの機械と言ってしまえばそれまでだけど、いつしか愛着が湧いてまるで相棒のように思っていたのだ。

楽器や機材などいつも大量の荷物をどこまでも運んでくれる頼れるやつ。私にとって車は楽器と同じくらい大切なものだったのだ。 

 

三津で知り合った砂絵アーティストの田村祐子さんは、私が引っ越した同じタイミングで故郷に帰ってきた。その頃まだ彼女は砂絵はやっておらず、絵を描いていた。私のライブを見てくれて意気投合し、何か一緒に出来ることはないかと探っていく中で、砂絵と歌の作品を作ることにしたのだ。

まず彼女は、渡し舟の近くにある鉄工所の方に相談し、海外の砂絵をやっている人の映像を参考にして設計をお願いし、初めて砂絵台を作ってもらった。

いろんな砂も試した。そしてようやく形になった頃、それをおもしろがってくれた友人が港近くの製材所でライブを企画してくれたのだ。 

お客さんは30人くらいだったけど、それは素晴らしい夜で、三津に来て新しいことが始まったことを皆が喜んでくれた。

それから数年、彼女の砂絵台はすっかり相棒となり、様々な場所で素敵な砂絵を沢山の人に見てもらえるようになった。 

 仕事道具とは、自分の人生を切り開いてくれる大切なものだ。それを愛着のある地元の人と共に制作出来たことは、彼女のこれからの作品にとって大事な要素であることは間違いない。

この夏、新しい車に乗って音楽と砂絵を横浜に届けに行く。三津で出会った二人の作品によって、松山と横浜は一つの空でつながれたように思う。


                     ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「蜜柑の花とかき氷」


春がやって来たかと思ったら、あっという間に夏の匂いを感じる。蜜柑の木にふっくらとした蕾が無数について、間もなく花の香りが街中に漂うのを心待ちにしている。もうひとつ待っているものがある。

三津商店街の中程に友人が経営している喫茶店がある。店の軒には葡萄のつるが伸びている。私が松山に越して来る1年前に、この喫茶店は開店した。最初はコーヒーやケーキだけだったが、いつの頃からか、かき氷を始めるようになった。

特にかき氷が好きでもなかったのだけれど、店主の作る氷菓子(こおりがし)と名乗るものを一口食べてからというもの、毎年心待ちするようになった。

島から取り寄せた新鮮な果物を、まだ寒い初春からコツコツと仕込み、手間ひまかけたシロップがたっぷりかかったこだわりの氷菓子は、初めて食べる贅沢な味わいなのだ。

 季節を感じる仕事いうのにとても憧れがある。私も歌を選曲するときは、なるべく季節にあったものを心がけてはいるが、魚や野菜、果物を扱う仕事はダイレクトに自然を受け入れて生きている。当然時季によっては 手に入らない物を待ち遠しく思い、あれこれと考えを巡らすその時間がたまらなく楽しいのだ 。

 今時は何でもすぐに手に入れられる事が良しとされて便利ばかりが進んでいるけれど、簡単に手に入る物には愛着が薄くなる。そしてつまらない。

そんな事が続くと何だか自分の気持ちが貧しくなっていくようで怖くなる。

 近所のお魚屋さんに通って教えてもらった魚の名前もずいぶん覚えた。命には季節がある事を魚屋のおばちゃん達は当たり前のように話してくれる。毎回そのことに密かに感動しながら魚を味わう。有り難い。

忙しさにかまけて、なかなか丁寧な暮らしぶりとはいかないけれど、意識して暮らす事の大切さはこちらに来てから心がけるようになった。 

 喫茶店の店主は少しでも夏の気配を感じると半袖半ズボンになっている。

まだ寒の戻りもあるというのに、夏が来たと言い張る。新緑から深緑への移り変わりはあっという間だから、それに乗り遅れないようにもう氷菓子を出すそうだ。

私としてはまだまだ春を満喫したいけれど、彼の目の前には夏の風景しかないらしい。蚊も飛び始めた。

三津の夏は早い。

                   ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「春風とスケートボード」


 小学生の息子にスケートボードが欲しいとねだられた。怪我をするのではないか、人に迷惑をかけるのではないかと思ったが、彼のやる気を信じて買ってあげることにした。

子どもとは凄いもので乗るたびにめきめきと上達していく。私の子どもの頃はどちらかというと映画などを見るのが好きで、流行ものにはあまり興味がなかった。ましてやスケートボードなど横目に見ながら一度もやったことはない。板の上に乗っかるだけなんて簡単だろうと思っていた。そんな私に「お母さんもやってみてよ!」とキラキラした顔で見つめる息子につられ、つい少し乗ってみた。 

ところがである。

板の上に足を乗せてこぐという事が全然出来なかった。バランスをとるのが難しくすぐ足をついてしまう。こんなに難しいことを軽々とやっていたのかとスケートボードをやっている全ての人に感心した。と同時にこんな事も出来ない自分にちょっとショックだった。

 三津にマークさんというフランス人の翻訳家が住んでいる。もう随分長く日本に住んでいて、日本人より日本文化に造詣が深いのではないかと思うほど色いろなことを知っている。

毎朝、太山寺の頂上まで散歩し、瀬戸内の風景を眺めるのが好きだという。近所の神社で雅楽の笛「しちりき」も習っている。いつも好奇心いっぱいで人生を楽しんでいるその姿を見かけるたびに、こちらも気持ちが明るくなる。好奇心を持ち続けている人はとても若々しい。

最近、年齢が身に染みるようになってきた私はいつもマークさんを見習いたいなと思いつつ、なかなか実践出来ないでいた。

 

 重信川のほとりで、息子と一緒にスケートボードを練習してみた。始めはへっぴり腰だったが、しばらくするとなんとか板の上に足を乗せて少しこげるようになった。こげるようになってくると今度はスピードを上げてみた。少し怖かったが頬に受ける風が気持ちよく、何ともいえぬ爽快感。四十も半ばになって、新しい世界に巡り会えるとは。息子に感謝である。 

汗ばんで大笑いしながら川のほとりを走った。鳥もチチチと鳴きながら一緒に飛んでゆく。新しいことを始めるのは何も大げさでなく,、こんな身近なところにあるのだと嬉しくなった。私もマークさんのような好奇心の人に少し近づけたかもしれない。

             ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「花と歌の日々」


松山に満開の春がやってきた。小さな庭先から川沿いの並木にまで、隅々に春があって目に楽しい。花々を色んな人々に例えると、あの花はあの人、この花はこの人と思えてくる。

大きな桜の木の下では、思い思いのお弁当を広げた人々が楽しそうに語らっている。  

JR松山駅近くにレコード屋がある。ご夫婦で経営なさっていて、今年で35年目になるそうだ。最初は音楽通の友人が連れて行ってくれた。音楽にとてもこだわりの強い彼は、もうこのお店に通い続けて20年以上になるのだと嬉しそうに話してくれた。彼がまだ高校生で外国の音楽を聴き始めた頃、店のご夫婦がこんな音楽はどう?と色々教えてくれたと言っていた。

昔好きだった音楽を久しぶりに聴いてみると、なんだか少し恥ずかしい気持ちになる時がある。何もわかっていないのに好奇心だけは人一倍で、どこか異国の音楽に自分のこれからの人生を重ねてみたりしたものだ。人それぞれに好きな音楽があって、それはその人の大事な部分に響いている。年齢を重ねていくたびに、哀しい歌の意味が自分の身の上と重なってくることが増える。そうすると、また違った音楽の聞こえ方がしてくるのだ。

そんな大切な音楽が沢山置いてあるこの店に通い続けた人達がいて、その人達をずっと見守りながらレコードを売り続けているご夫婦いる。

このお店はあの大きな桜の木のようだと思う。

花も音楽も、ともすれば無駄なものとして扱われる事がある。しかし、春になって花が咲いたら嬉しくなるように、好きな音楽を聞くと気持ちが元気になるように、人が生きていく上で必要不可欠なものなのだ。

あの大きな桜の幹はご夫婦の歴史であり、下に広がる根っこはレコードという音楽の数々。そして、花開いているのは、音楽を愛でる人々。そんな目線で街を見回すと、あちこちに咲いている桜は、沢山の人々の生活の豊かさの象徴のように思える。

そのような店が松山にはまだまだ沢山あって、長い時間をかけてみんなが見守られながら、そして愛でながら生活している。

ぽっと移り住んだ私には、そんな豊かさが羨ましい。

満開の桜の下、私もこの街の端っこで一本の木のように生きていけたらと願う、そんな春の日。

                                                  ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲


※このエッセイは愛媛新聞文化欄「四季録」のコラムを掲載しています。


「はじまりのはじまり」


わが輩は音楽家である。

松山には沢山の面白い人々がいる。その魅力に取り憑かれて、6年前に横浜から移住してきた。

6年の間に愛媛の様々な風景に出会い、人に出会いながら歌をうたって生きている。三津浜という街に住み着き、この土地から日々の恩恵を受けて今に至る。       


生まれは飛騨高山で、山しか見た事がない私は、あちこちを転々とし、海のある三津浜の景色に心惹かれた。穏やかな空気、かつてあった賑わいの跡、路地の猫、広い空と島々から吹いてくる風。皆が、なぜ何にもないこの街に住むのか?と聞くのだが、何もないどころか、ありすぎて困るくらいだと言うと、不思議な顔をして、「まあ、愛媛は美味しいものがようけあるわい。」と楽しそうに話してくれる。

毎日身体に入れる愛媛産の野菜や魚、水や空気、景色のおかげか、最近はなにげない普段の言葉がすっかり伊予弁になってきた。東京に仕事で行った時も、自然に〜しようわいと言っている。いつだったか、人は7年で全身の細胞が入れ替わると聞いた事があるが、間も無く私の細胞も、愛媛育ちになるかもしれない。


三津商店街の入り口に餃子屋さんがある。そこの店主が大変面白い人で、餃子を焼きながら、役者になる夢をいつも語ってくれる。

彼がレッドカーペットを歩くのを想像しながら、もくもくと餃子を頬張る。私の夢は何だろうとふっと考えた時、子どもの頃から文章を書くのが好きだった事を思い出した。そんな折、たまたまこの四季録で半年間、文章を書いてみないかとお話を頂いた。歌をうたうのに沢山詩は書いてきたが、文章となるとこれはまた未開の世界なのだ。餃子屋の店主の美味しい食べ物を口に入れていると、私も新しい事に挑戦したくなってきた。よし、愛媛で出会う、愛媛の人が当たり前すぎて気がつきにくいこの土地の豊かさについて書いてみよう!そんな気持ちになった。18歳で飛騨を出てからのよそ者歴は長いのだ。よそ者目線から見る日々の徒然を改めて文字にしてみよう。そんな風に感じたら、書きたい事が山のように湧いてくるのであった。

 かの夏目漱石さんも、よそ者目線で見る松山を舞台に書いた素晴らしい名作「坊っちゃん」が生まれた。私からそんな名作が生まれるとは到底思えぬが、少しだけあやかってみようと思う。


(写真は餃子屋店主。近所のおばあちゃんから貰ったという「ひとりしずか」の鉢を手に。。。。)



                                          ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲


〜わたしの中に住む街の制作にあたって〜


このアルバムは3年の年月をかけて完成しました。

かけたというよりもかかってしまったという方が正確です。

松山の三津という街に引っ越してきて今年で6年目。

この土地でも様々な人たちに出会いました。

特に、三津や道後で出会う人々はとてもユニークで、なんとかこの人々のことを作品に出来ないだろうかと考えました。

松山に越してからも色々あって、けっして楽しいばかりでもなく、むしろ今までの人生最大級に大変だった時期もあったのだけれど、このユニークな人々と瀬戸内の海の風景に何度も励まされたり笑わせてもらったおかげで、今に至るのです。

この街、そして今まで出会った人々のこと、あの街の風景、そういった日々を、たまにつける日記の様に録音し始めました。

録音するときは、波の音と一緒に歌ってみたり、虫の音と歌ってみたり、あるいは街の風景に耳をすませてその街のリズムに合わせて歌ってみたり。

ときには、商店街のお店で餃子を焼くところや、かき氷を作る音に合わせて音楽を作ってみたり。

できるだけシンプルに。ありのままに。

わたしの目の前に広がる風景の全てがそのままの空気で音楽にできたらなと思いながら制作してきました。

そしてもう一つこだわったのは、全部言葉がハナモゲラ語(私の造語)による歌詞になっているところです。

これは、私の住む街の音でありながら、世界中の人の住む街の音でもあったらいいなあという想いでもあります。

私は幼少の頃から映画がとても好きだったので、一本の映画を見たような気持ちになるよう、音を、映像や物語のように表現しました。

そしてこの街に住む、写真家、デザイナー、翻訳家、音楽家、エンジニアなど全て同じ風景を共にしながら生活している友人達にも一緒に制作に関わってもらいました。


小さな港町の季節を通した日常の断片の物語です。



〜ゲストミュージシャン〜

工藤冬里(声、ピアノ)

吉田達也(声、ドラム)

船戸博史(ウッドベース)

高岡大祐(チューバ)

白石伸吾(スチールギター)

tomtom(虫の音サンプリング、トランペット)

写真 一楽ichigaku デザイン ささきようへい

レコーディングスタジオ ビレッジホトトギス 

エンジニア Tsuru Mitsumune   ロスハンフリー

翻訳 ウェスジャンマーク




                       ○

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲




〜2016年は私にとって節目のような年だった。〜


子供の時からずっと考えてきた、自分は「何者」なのか?

どんな役割で生きて行くのが一番良いのか?

まあ、その事をいつも心のどこかでぼんやり抱えながら日々を過ごしてきたのだけれど、考えているわりには、いきあたりばったりの思いつきでやってきた。

そんなんであるから何事も経験の少ない子供の頃は人とコミュニケーションがうまくとれなくて、自意識過剰でずっと自分が恥ずかしい。

恥ずかしくない自分でいられるものはないかしらとあれこれ手をつけてみるがどれも全く続かず、結局、更に恥ずかしさでいっぱいになる、、、そんな鬱々とした日々だった。

でも人間って生き物にどうしようもなく惹かれる。知りたい、知りたい、感じたい。

なんとも言えない気持ちの間でゆらゆらぐらぐらしながら、憧れの人間が沢山出てくる映画ばかり見ては現実逃避する日々。


ある日、私と一緒に暮らしてもいいと言ってくれる人が現れ、子供を授かった。

そこから、何かスイッチが入ったかのように無我夢中で子育てをしながら、突然の(いつもの)思いつきで太鼓を叩きながら歌い始めるのだがここからの20年分の話は長いので割愛する。

まあ相変わらず思いつきで動くもんだから当然、失敗、別れ、出会いの連続で、色んな人に迷惑沢山かけて助けてもらって、そして歌うのは止めることなく続いてゆき、子供たちも育て続けることが出来ている今。

ふと気がつけば、歌や子供達を通じて沢山の人に出会い、中ムラサトコとは何者なのか?をみんなが教えてくれた。

その言葉や笑顔に救われ続けて20年。

歌の表現こそが私だと思っていたが、それはちょっと思い違いをしていたことにようやく最近気がついた。


それは歌をうたうことを通じて出会った人、子育てを通じて出会った人、住んだ街、風景に深く関わることで、色んな心の形を教えてくれる友人や家族、沢山の知り合いたちと共に、皆で笑ったり泣いたり怒ったりしながら生きる毎日こそが人生だということ。

望んでいたのは、人々や世の中の事に歌を介して深く関わっていく日々。

私にとっての歌とは、人間という不思議で面白い生き物に沢山出会って楽しんで生きていくための手段なのだった。

そんなもっとも当たり前の事がはっきりと自覚出来た、2016年だった。


私がこれからも知りたいことは、人という心の在り方だ。

その在り方を日々のあれこれの中に感じていると、また不思議と歌が生まれる。

歌は、私が何者か?を表現するのではなくて、人と深くつながっていくための道具としてどんな表現をしようか?

そんなふうにも感じるようになった。


これから何がおこるかなんてわからないし、自分の役割もその時々で変わっていくのだろうけど、私が関わる事の出来る人たちを少しでも楽しい気持ちにするために、出来れば死ぬまで人と面白おかしく、そして誠実に関わって、心の在り方を教えて貰い、人生を楽しみたい。

ま、きっと相変わらず思いつきではあるんだけどね。。。。

中ムラサトコ節目の決意表明?でありました。

さて、今年もどうぞよろしくお願いします。

まだまだ歌えそうなんで、面白い歌を持って会いに行きますね。


Photo by 一楽~ichigaku~